何年も前のことですが、そのクライアントは当時、毎回セッションをするたびに山のように質問をしてきました。
「こっちが良いのか、あっちが良いのか、本間さんならどっちを選びますか?」
「この件に関してはどうしたらいいと思いますか?」
「本間さんならこんなときどうしますか?」
文字にするとまるでアドバイスを求めているようですよね。私も当時そのように感じて、ときには話を深堀りし、時には相手がどうしたいのかを聞くように応じていました。でも、どうも私が彼女の質問に応じて話をしているとき、彼女の表情は「次は何を言おうか」ということでいっぱいでした。こういうこと、相手の表情を見ればたいていわかりますよね。
こんにちは。産業医・伝え方コーチの本間季里です。世代の違い・価値観の違い、利害の対立など、葛藤や緊張を伴う難しい関係性のなかで、それでも妥協点を見つけて協調していくための伝え方をご提案します。「頭でわかった」ではなく、実際にやれるまでしっかり寄り添います。
もうひとりの友人の話です。本当に何年ぶりかでランチをともにした友人。ここ何年かの私の近況に興味津々で、いろいろと質問をしてくれました。それが嬉しく、張り切って質問に答えようとすると・・・
(友人)「引っ越したって言ってたけど、今どこに住んでいるの?」
(私)「あのね・・(友人の次のことばに耳を傾ける)」
(友人)(私の言葉にかぶって)「千葉にご両親が住んでいるって言ってたよね?千葉に住んでいるんだ?」
(私)「ううん、そうじゃなく・・・(友人の次のことばに耳を傾ける)」
(友人)「この天ぷら美味しいね。自分で揚げるとこうカラッといかないよね」
(私)「・・だね・・」
3つ4つこういう質問と答えが続くと、「別に質問に対する答えが聞きたいわけじゃないんだ」と思い、私は、彼女が質問を口にしてもちょっと黙って弾丸のように続く次の質問を待つことにしました。
人は非言語情報でたくさんのメッセージを周囲に伝えています。あなたが話している間、相手が「次は何を言おうか」という表情をしていると、相手がこちらの話を全く聞いていないということが伝わってきます。
彼女たちの場合もそうでした。すぐに私は質問をされても答えなくなりました。彼女たちが求めているのは質問に対する答えではなく、「ただ、私の話を聴いて」ということだったからです。私が彼女らの質問に対して全くコメントをしなくても、彼女たちは全然気にしている様子がありませんでした。多分質問の形式をとっているだけで、単なる話のつなぎというところだったのではないかと考えています。
相手の話を聴くよりは、「ただ、私の話を聴いて」という欲求が強くなる理由は人によって様々でしょう。冒頭の彼女の場合は「こどものころからずっと我慢に我慢を重ねて相手に合わせることばかりしてきたから。今になって、安心して話を聴いてくれるひとを見つけて、『私の話を聴いて!!』という気持ちでいっぱいになった」ということのようです。
そういう人の話に付き合うって疲れないか、よく質問を受けます。私はこういう場面に遭遇したとき、どうしても疲れるなら、私はこういう場面を自分の力で回避することができる、ということを思い出すようにしています。
次から会う頻度を減らすこともできる。「さっきから質問攻めだけど、でも、私の答えを聞いちゃいないよね」と事実を伝えることもできる。その時の私のように、黙って天丼を食べながら弾丸のように流れていく質問の数々を馬耳東風と聞き流すこともできる。どれでも私達は選ぶことができます。
でも、それで恨まれたり嫌われて悪口を言いふらされたりしたら嫌じゃないですか!ともよく言われます。そう思う場合は、「嫌われたくない」「悪口を言いふらされるリスクをゼロにしたい」という自分の気持ちに正直に行動すればいいだけです。質問という形式をとっているけれど、こちらの話を聞く気がなくてひたすら自分の話を聴いてほしい人の話を聴く、ということに徹すれば良いのです。
ほとんどの人はどちらにするのか決めることをしません。延々と続く相手の話をちょっとなら聞いてもいいけれど、こっちの話も黙っていても聞いてほしいと思っている。それなのに「その常識」を守ってくれない相手を心のなかで恨みながら「嫌われたくない」「嫌われるかもしれないリスクはゼロにしたい」という思いも手放すことができません。そりゃ、もやもやするに決まっています。
私達は自分が思っている以上にたくさんのことを主体的に選ぶことができます。正確に言うと、主体的選ぶ道も目の前にいくつも広がっています。でも、なかなか自分で決めることをせずに「相手がそうさせた」とモヤモヤイライラとするのもまたわたしたち。
どちらの道を選びますか?