小学校に入ると同時に電車通学になった私は、定期券のパスケースに10円をいつも入れてもらっていました。通学の途中で何かあったときに公衆電話から自宅に連絡を入れることができるように、ということでした。そして、「もし、お金が足りないときには交番のおまわりさんにお金を借りなさい」と言い聞かされていました。
最寄りの駅の駅前の交番に学校帰りに時折立ち寄り、おしゃべりをしました。おまわりさんとおしゃべりができるのはどこか誇らしく感じました。駅前を通る人に目配りしながらおまわりさんは機嫌良く私達小学生の相手をしてくれました。ある日、私の定期券のパスケースに10円が入っておらず、交番に向かいおまわりさんに「10円貸してください。」といいました。おまわりさんは「返さなくていいからね」と言ってすぐに10円貸してくれました。
大人になって、ある朝早く車で仕事に向かう途中、幹線道路で車が故障して動かなくなってしまいました。なんとか車を路肩によせ、最寄りの駅から電車で仕事に向かうことにしましたが、運の悪いことに財布には210円しか入っていませんでした。当時はコンビニエンスストアにATMも設置してありませんでしたし、私はかなり慌ててしまいました。どう考えても210円では仕事に向かうことができません。心を落ち着けようと210円のうちの150円を使ってお茶を買い、店の外でそれを飲みながら気持ちを落ち着け、今後どうしたら良いか考えました。ふいに子供の頃の「困ったらおまわりさんにお金を借りなさい。」と言われたことを思い出しました。
必死の思いで駅前の交番に向かい事情を話して1000円貸してもらいたい、と頼みました。しかし、時代も変わり、私ももはや小さな小学生ではなくなっていました。交番の警官は申し訳なさそうに「貸して差し上げたいのはやまやまですが、できない決まりになっていまして申し訳ありません。わかってください」
そうか、ほんの1000円、必ず返す、と言ってそのままの人が多いんだな、とぼんやりと考えましたが、私は私でなんとしても仕事に時間までに行かなくてはなりません。もう、ありったけの身分を示すものを出して「これを置いていきます。今日の夕方必ずこちらに寄ります。勤め先が心配なら今電話かけて確認してください。」と食い下がりました。遂に警官は笑いながら、私がこれから仕事で行く先を見て「ここだったら、うちの家族もずいぶんお世話になっています。そうですか。こちらの方ですか。」といって電車代を貸してくれました。おかげで時間ギリギリでしたが遅れることなく仕事に間に合いました。
その日の夕方、クッキーの小さな包みを抱えて交番に立ち寄ったのはいうまでもありません。私にお金を貸してくれた警官は不在でしたが、私のことは引き継ぎされていたらしくクッキーの包みとお礼のカードを受け取っていただくことができました。
この話を友人や職場ですると、ある年齢から上の人はちょっと考えた後で「交番でお金借りたんだ」と答えるので、子供の頃、「困ったらおまわりさんにお金を借りなさい」と言われた経験のある人が多いんだな、と微笑ましくなります。私にとっては、警察官の原点です。