「最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の影に隠れた同罪者である。」マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の言葉です。
誰もが、この言葉に納得するのではないのでしょうか。自分自身が、沈黙した善人としての記憶があるはずです。そして、助けて欲しかった時、温かい声をかけて欲しかった時、慰めて欲しかった時、周りの善人が沈黙する様に傷ついたことがある人として。誰しもが、両者の経験を持っているはずです。
善人が沈黙を破るには勇気が要ります。せっかく勇気を出して沈黙を破るのであれば、相手に届くような方法にしよう、と決めています。とは言っても急に大きなことは出来ませんし、必ずしも大きなことをすればいいというものでもありません。大きなことをしようとすると、シンボル的な人にばかり目が行き、同じ困難に直面している、最も身近な人の存在が消し去られてしまうということも有ります。ですから、沈黙しない善人も、色々なレベルの人が必要なのです。
ハードルが低いところから取り組んでいくと、思いの外、早く「沈黙しないでいる」ことに慣れていきます。そして少しずつ、取り組める内容が変わっていきます。ついでに言うと、「沈黙しない善人」への自主錬中である、という話をことあるごとにするようにもしています。あくまでも、相手に要求するのではなく、「私はこうしています」という範囲に留めます。気にしてくれる人がいたら良いな、くらいの気持ちです。大切なのは「自分自身が行動するかどうか」であって、人がどうかということではないからです。
沈黙する善人に囲まれていると、個人を恨むのではなく世の中全体を恨むようになります。そういう人が少しでも減ってほしいと願っています。沈黙しない善人への自主錬、続けていきます。